夕学五十講 佐野元春 共感伝達としての「音楽」と「言葉」

2011年5月27日

 この慶應丸の内シティキャンパスで開催される「夕学五十講」の話を知ったのは開催の2週間前だった。きっかけは佐野元春オフィシャルファンクラブ「mofa」のラウンジに書きこまれた情報だった。元々東京で開催されるから、行けないやと思い込み、すっかり情報を忘れていたのであるが、2月ごろに公式サイトで開催のアナウンスがあり、それが2週間前になって全国にサテライト中継されるという話を聞いたのである。最初はどうしようか迷っていたのであるが、せっかく近くだし行ってみるかと、公演開催の1週間前に申し込みをした。

 

  会場は福岡の場合、福岡商工会議所である。チケットも商工会議所の会員の方には割引があるらしいが、僕は一般人なので、5600円とちょっと割高に感じた。それでも「佐野元春のザ・ソングライターズ」を毎週楽しく観ている僕としては、あんな感じの講座かなと思ってわくわくしていた。

 

 当日は天気が悪く、午前中体調が思わしくなかったが、午後になると回復。夕方に家を出てちょっと本屋によった後、福岡商工会議所に足を向けた。福岡商工会議所は博多区役所の裏にあり、迷わずに行くことができた。

 

 ネットの情報では定員60名とのことだったが、実際の参加者は20名程度。しかも佐野元春ファンらしき人はあまり見かけない。この夕学五十講はシリーズで色々なゲストを呼んで講座を開いているので、その関係で出席している人も何人かいた。

 

 6時半丁度に講座は開講。テーマは、表題のとおり共感伝達としての「音楽」と「言葉」ということだった。以下、僕が講座の中で聞き取ったことを箇条書きにまとめてみる。

  • 詩は力を失っているのではないか、という一方で詩の現代の問題に関する力は未だあるのではないかという感じ方もある。
  • ソングライティングとは何か?
  • 自分を知る作業
  • 共感を求めるための作業
  • 普遍性を獲得する作業
  • 世界を友とするための作業

 俳句をビートで解析すると、4拍子で出来ている。5・7・5の句が3つの4拍子と、1つの無音の4拍子で出来ている。例えば「古池や 蛙飛び込む 水の音 ・・・」というように無音の4拍子に情緒を感じるようになっている。

 

 頭韻と脚韻(ライミング)の二つが詩にはある。頭韻は、各バースの頭で韻を踏むやり方。脚韻は後ろで韻を踏むやり方。ラップなどは脚韻が多い。

 

 言葉(詩)の要素は、「音」、「映像」、「意味」の3つが複雑にからみ合って出来ているものである。

 

 詩を描くときのポイント

  • 他社への優しいまなざしがあるか
  • 生存への意識があるか
  • 言葉に内在するビートに自覚的か
  • 文字だけで読んだ時、ポエトリーとして成立しているか
  • 自己憐憫ではない詩
  • 普遍性がある。時代、性、国籍、年代を越えている
  • 音と言葉の繋ぎ目のない連続性があるか
  • 共感を集めることに自覚的か
  • 良いユーモアの感覚があるか
  • ソングライティングとはなにか
  • 誰かの痛みに触れてしまう作業
  • 世界をより良く変革するための武器
  • 全ては想像力
  • 夢見る力をもっと

 約1時間で佐野元春の講座は終了、続いて2003年のポエトリー・リーディングライブのビデオを4曲放映してから、質疑応答に入った。本会場である丸の内は元春ファンが多いのか、結構質問が飛び交っていたが、サテライトからもいくつか出ていたようである。実は僕の質問も読まれて、それは「それを希望と名付けよう」という詩に対しての質問だったのだが、佐野元春は「10人が10人いいという詩は大した詩じゃない」というきっぱりとした見解に胸がすく想いがした。あの詩はまだ完成されたものではないのだが、現実につきつけられて出てきた誌だという話も納得できた。

 

 後興味深かったのは、佐野元春といえばライブでアレンジをよく変えることで有名だが、彼の中では変えてもいい曲と、ダメな曲がちゃんとあるらしい。これには共感できる。また、タイトルのつけ方に対しても真摯に答えていたのが印象深かった。

 8時半丁度に講座は終了。会は解散となった。なんかいいものを見せてもらったなという気分になって、夜の博多を歩いていた。